世の中のいろいろなことに対して、少しばかり主張してみます。


by Hi-Zettaisha
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“ナショナリズム”と「身内意識」

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本が優勝。
大リーグの選手を揃えたアメリカでもドミニカでも韓国でもなく、大リーグ在籍選手が二人しかいない日本が一位で、全然いないキューバが二位。
こんな結果を、誰が予想したでしょうか。
それでも、これが事実なのです。爽快です。

私は前のエントリーで「素直に嬉しい」と書きました。
しかし世間には、「素直には喜べない」人たちがいらっしゃるようです。
特に、自らとチームを鼓舞するために“熱い”イチローを演じた、鈴木一朗選手に風当たりが強いようですね。
どうしてでしょう?



この、私に言わせれば「後味の悪さ」を提供する方々。
どうも、WBCで日本が優勝したことを喜ぶのを“ナショナリズム”と結びつけて批判したり、イチロー選手の言動を「差別意識の現れだ」と非難したりしているようです。
その方々のブログを一部、紹介しましょう。

◆『A PLACE IN THE SUN』裸の王達
イチローは大リーグで、人種差別を訴えていた。
日本人だけじゃなくプレーヤーすべてに公正な評価を求めていた。
でもその差別はイチローにもあったんじゃないのか?
イチロー選手のあの発言が、自らとチームを鼓舞する発言だとは思えないようですね。
「実力差がある」と考えることは、相手チームと自分のチームの実力を比較してのことで、相手を差別(というより侮蔑)する意識に基づくものではないはずです。
(韓国マスコミの報道による)韓国側の曲解を真に受けているのでしょうか?

◆『雑感』ワールドベースボールクラシック!
 韓国にとっては宿敵日本に2連勝でさぞかしうれしかったであろう。
 選手の中には、過去の植民地化されたときの屈辱に燃えていた人もいるだろう!
 韓国が35年間日本の支配下に置かれ、いろいろな面で屈辱を味わった人には、うれしい日であっただろう!
◆同上 ワールドベースボールクラシック!
 サッカーのワールドカップでもそうだが、なぜ国別にやる必要があるのだろうか?確かに今回はイチローが素晴らしいリーダーシップをとった。王監督の采配も素晴らしかったのだろう?
 ただイチローの発言にも見られるような日本人の優越感もいやいや感じた。
何も世界一を決めるのに、にわか作りのチームでやる必要はないだろう。
一年間、プレーをともにした各国の優勝チームが一堂に会して試合をやってもいいのではないか?
 そのほうが自然だし、何も国歌斉唱とか「日の丸を背負って」などという発言も聞こえなくなるからいいと思う!!!
 お国のためにスポーツなどしてもらいたくない!!
「国のためにスポーツをするな」と言う割には、韓国国民が「日本に勝利した」ことを喜ぶのには疑問を感じない、いや当然視しているようです。
こちらもイチロー選手の発言に「日本人の優越感」を見ているようですが、この方自身がWBC勝利を喜ぶ一般の日本人に対して、ある種の優越感、相手を見下す視線を持っているようにも感じられます。
「日本人のナショナリズムは悪、韓国人のナショナリズムは善」という、典型的なダブルスタンダードではないのですか?

◆『日本がアブナイ!』WBCを観て思うこと(2)   ~ 韓国は侮れず & イチロー発言に対する疑問 ~
 そしてまた、これはもしかしたら批難を受けることも覚悟であえて書くが、正直なところ、私は彼の言動のいくつかに問題性を感じて、クビをかしげてしまうことがあった。いや失礼だと思ったり、不快感や失望感を抱いたと言ってもいい。
 その一つは、一次リーグの記者会見の際の「ただ勝つだけじゃなく、すごいと思わせたい。戦った相手が“向こう30年は日本に手は出せないな”という感じで勝ちたいと思う」という発言だった。
 もう一つは、17日の韓国戦で負けたあとのインタビューで、韓国選手がウィニングランをしたのを見た感想をきかれ「不愉快でした」と発言したことである。
【中略】
 私は野球選手に聖人君子たれとか、紳士たれとか言う気はさらさらない。グラウンドでいいプレーを見せてくれるのが一番いいし、また自己アピールやファンサービスの一環として多少過激な発言をしたり、ウケを狙う言動をしたりするのも悪くはないと思っている。
 ただ野球選手も一人の社会人であり、時には公人として扱われる立場にある以上、その言動にはそれ相当の配慮が必要であるとも思う。
【中略】
 ましてや、相手が勝利を喜びウィニングランをしたのに対し「不愉快だ」という表現を使ったのを見た時には、情けなささえ覚えてしまった。確かに、勝った相手がはしゃぐ姿を見るのは面白くはない。国旗をマウンドに立てたりするのをみた時には私もやり過ぎかなとは思う面もあったが、それぐらい彼らは日本に連勝してベス
ト4になったことが嬉しかったのだろうし、韓国の応援のために球場に多数詰め掛けた人たちに感謝を示したいという意図もあったのではないかとも思う。
◆同上 祝・WBC優勝 ~ 王監督とイチロー& スポーツにナショナリズムはいらない
 また、私個人はスポーツに国家主義または国粋主義に近い形のナショナリズムはあまり持ち込んで欲しくないと考えている。今回、「国と国の威信をかけて戦う」というフレーズが放送や活字で見聞されたが、正直なところ、それもあまりいい表現とは思えなかった。
 これは、あくまでもスポーツなのだ。競技に名を借りての戦争でも国同士の戦いでもない。その競技の試合に勝ったから国として上であるとか優れているということでもないし、負けた国が勝った国に従属しなければならないわけでもない。単にチームとしての勝敗を決めるだけのものなのである。国民があたかも国と国の戦いのようにとらえて、試合を応援したりするのは好ましくないと思うし、それをマスコミや周囲があおるようなことも望ましくないと思う。
この方のエントリーは冷静な筆致で書かれていますから、本来なら全文紹介した上で意見を書きたいくらいですが、長くなるのでここまでにしておきます。
私のこのエントリーを読まれたなら、是非 mew-run7 氏のエントリーを全文読まれた上で考えることをお勧めします。

しかし、私は氏とは考えが異なります。
私は、イチロー選手の発言に(公の場で発言するスポーツ人として)特に問題があるとは思いません。
そして二次予選での韓国チームの振る舞いを見て、「不愉快だ」と感じるのは当然のことだと思います。
氏のように無理にでも、韓国チームに好意的な推測をすることは、私にはできません。
これは別のエントリーで、書こうと思います。

そして、氏のナショナリズムに絡めた一文。
これそのものは真っ当な文章です。ごくごく当たり前のことです。
しかし国別対抗戦、国の代表として他国のチームと競うことに「国家主義または国粋主義に近い形のナショナリズム」を感じる、「国民があたかも国と国の戦いのようにとらえ」ると感じることには大いに違和感があります。
どこからそんな発想が出てくるのでしょうか?
「国」=「ナショナリズム」=「戦争」という方程式が、暗黙の内に成立しているようです。
残念ながらこの方程式、間違っていますが。

総じて皆さん、「国」という言葉にあまりに過敏です。
ナショナリズム(nationalism)とパトリオティズム(patriotism)、ショービニスム(chauvinisme)がごっちゃになっている気がします。

ナショナリズム、日本では悪い意味で使われることの多い言葉です。
ただ、意味の範囲が広く、しかも特に定義することなく使われているために、誤解を生みやすい言葉でもあります。
ナショナリズムを直訳すれば「国民主義」となりますが、その名の通り「近代国民国家(nation)」というものができてから登場した概念で、後に示すパトリオティズムの概念を国家に拡大したものと言えるでしょう。
国家主義・国粋主義とは完全にイコールの言葉ではないことに、注意する必要があります。

ショービニスム(フランス語)はフランス革命期に、皇帝ナポレオン・ボナパルトに心酔していた兵士、ショーバン(Chauvin)の名前から由来した概念で、「極端な愛国主義」とか「排他的愛国主義」と訳されます。
身近な例で言えば、島根県が「竹島の日」を制定した前後の韓国国内の状況を思い浮かべることができます。
日章旗を引き裂いたり燃やしたり、天皇陛下や小泉総理の写真に×印を付けて侮辱したり燃やしたり、「コイズミ」と名の付けられた鶏を生きながら焼き殺したり、が横行しました。
ゴルフ場や料理店には「日本人立入禁止」の札が掲げられ、日本人観光客が嫌がらせを受け、中学校では日本を侮辱する絵のコンクールが開催され、その作品が地下鉄の駅舎に貼られました。
「日本国」と「日本人」を同一視し、排撃することで自らの愛国心を確認する。
まさに「排他的愛国主義」です。

最近、良く聞くようになった言葉が、パトリオティズム
「愛国心」とも「郷土愛」と訳されることがありますが、私は「身内意識」と理解しています。
身内には気を許す感覚、身内を贔屓(ひいき)する感覚、身内が褒められると嬉しくなり、誇らしくなる感覚、身内を守りたい感覚、他にもいろいろ挙げられます。

「他者が存在すること」で作られるのが、身内意識です。
他の家族がいれば、自分の家族が「身内」。
他の一族がいれば、自分の一族が「身内」。
他の村があれば、自分の村が「身内」。
「他の共同体が有ること」で、自分の属する共同体を「身内」と考えます。
都道府県対抗の駅伝では、自分が属していると思う都道府県が「身内」なので、その代表を応援します。
国別対抗の野球では、自分が属していると思う国が「身内」なので、その代表を応援します。
何も、おかしいことはありませんね。

異星人が出現していない現時点では、共同体として最大の単位が「国家」である以上、身内意識として実感できるのは「自国民」までです。
ナショナリズムは「国民」視点の概念なので、ここでパトリオティズムはナショナリズムが接触します。
そこに、自国民以外を蔑視する感覚は含まれていません。

いやムスリム(イスラム教徒)の世界では「イスラム共同体」というものがありますし、「同じキリスト教徒」「同じ仏教徒」という意識もありますから、これは「国を超えた身内意識」と呼べるかも知れません。
「アジア人」とか「アフリカ人」、「ヨーロッパ人」もあります。
ここには多分に「他者への対抗意識」というものがありますが、ここにも他者を侮蔑する感覚は含まれていません。

これに対して“地球市民”という言葉がありますが、先に書いたように異星人が出現して「地球人」という意識ができた訳ではないので、これは身内意識の延長から作られた概念ではありません。
多分に無理をして人工的に作られた概念で、ある種の思想的なものでしょう。

ナショナリズムが、国粋主義といわれるように他者の存在を許容できなくなったり、他者への侮蔑意識を持つようになるのは、往々にして他者との争いが起こってからです。
他者への敵意が、自らの絶対化に働きます。
他者への敵意が、自らが含む他者の要素に向けられ、国粋主義となります。
そして他者が圧倒的な力を持っていたり、自らが明らかに他者より劣っている場合、それを隠すために他者への侮蔑意識が出てきます。
その意味では別に国に限らず、異教徒間の争いでも同じことが起きています。
“地球市民”は「国境が無くなれば平和になる」と言いますが、共同体意識が国から他に変わるだけで、他者への敵意を伴う共同体意識が無くなる訳ではありません。
アメリカをイスラム世界の敵と見做した「9.11テロ」がその好例です。

つまり他者への侮蔑意識は、あくまでも他者との争いが起きた時に生じる「他者への敵意を伴う共同体意識」の一つであり、普通の共同体意識=「身内意識」に備わっているものではないのです。
「国のために」という言葉、「愛国心」という言葉は、「国」という単位の「身内意識」の発露に過ぎません。
イチロー選手の発言にしてもそうです。
それなのに、それらの言葉からすぐ「他国人を差別する意識」を連想する方々は、ローカルな「身内意識」を軽蔑することでそれを超越しようとする“地球市民”、自らが高みにたつ、ある種のエリート意識を持った人々なのでしょう。
そして実は、そのこと自体が他者への差別意識の現れなのです。
「差別を声高に叫ぶ者が、最も差別意識を持っている」。
その言葉の通りです。

日本に愛着を持つこと、日本人であることを誇りに思うことと、他国の人を蔑視することは別次元のことです。
両者は決してイコールではありません。
その意味では、愛国/憂国的なブログのギャラリーの一部に見られる、極端な“特定アジア”嫌悪には正直違和感を感じますし、逆に日本人を「愛国心を持たせるとすぐにアジアを侵略する国民」と規定する自称“リベラル”なブログには、強い嫌悪感を覚えます。
私も、自分がそうならないよう自戒しながら、ものを書いていきたいと思います。
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by Hi-Zettaisha | 2006-03-22 23:27 | 教育・社会・科学